8月31日は「ヤ(8)サ(3)イ(1)」の語呂合わせから決まった「野菜の日」である。
この日にちなんで、スーパーでは特売が組まれることもある。
そして私たちは普段、何気なく「どうすれば野菜を長持ちさせられるか」「どうすれば腐らせずに使い切れるか」を考えている。しかし、少し立ち止まって考えてみてほしい。
なぜ私たちは、これほどまでに『自然』を保存し、制御しようとするのだろうか?
8月31日がもう終わろうとしているのに、私は今になって「野菜の日」を真っ向から考えてみたい。
そして野菜の「日持ち」という不思議な現象が、人類と時間の葛藤や生の儚さにつながっているのだ、ということを記録しておこう。
「日持ち」という概念の裏にある人間の欲望
人は「野菜」をみると、すぐにどれくらい持つかな?と日持ちのことを心配する生きものである。
これは一見すると、単なる生活の知恵や節約のことを考えているように感じる。しかし、ここには自然の法則に対する人間のささやかな抵抗が現れているのだ。
野菜は本来、畑から収穫された瞬間から「死」と「分解」に向かって突き進む存在である。それは抗いようのない自然の摂理だ。
それにもかかわらず、私たちはラップを巻き、密閉容器に入れ、低温の冷蔵庫に閉じ込め、その時間を少しでも止めようと試みる。つまり、「野菜を日持ちさせる」という行為は、人間がテクノロジーを用いて自然の時間経過を、なんとかして一時停止させようとする儀式とも言える。
腐敗と発酵〜コントロールできる時間とできない時間〜
人間は古来より、コントロールできない「腐敗」を極度に恐れてきた。
- 腐敗→人間にとって有害で、予測不能な変化(時間の敗北)
- 発酵→人間にとって有用で、制御された変化(時間の勝利)
面白いことに、人間は「腐敗」を嫌う一方で、同じ現象である「発酵」に関しては、ぬか漬けやキムチなどをつくっては喜んで受け入れる。この差はどこから来るのだろうか。
それは「人間が時間をコントロールできていると実感できるかどうか」である。
自分の意図しない形で野菜がしなびていくこと(腐敗)には恐怖と罪悪感を覚えるが、自分の管理下で時間を味方につけること(発酵・保存)には達成感や愛着すら覚える。私たちが「野菜の日持ち」を考えるとき、実は自分の生活空間(時間)を自らの支配下に置きたい、という心理が働いているのではないだろうか。
「生の儚さ」を味わうという逆転の発想
現代社会は「効率」と「再現性」を重視する。そのため、「いつでも新鮮な野菜が手に入る」「いつでも長持ちさせられる」ことが正義とされがちだ。
しかし、もしすべてが永久に保存可能で、腐らない世界があったとしたらどうだろうか。
そこには「旬」という概念もなければ、いま食べるからこそ美味しい、という一期一会の感動も失われてしまうはずだ。野菜が、いつかは腐ってしまう存在であるからこそ、私たちはそこにみずみずしさや「生」の輝きを感じ取ることができる。
8月31日の「野菜の日」は、単に野菜を安く買ったり、保存テクニックを学んだりするだけの日ではない。かたときも止まらない自然の時間と命の儚さ」を味わう日として捉え直してみるのも面白いのではないだろうか。
まとめ〜冷蔵庫を開けるとき〜
冷蔵庫を開けて、ラップに包まれた使いかけの野菜を見かけたときは、ぜひ思い出してみてほしい。
「自分はいま、小さな冷蔵庫という箱の中で、自然の時間を一時停止させているのだ」と。
効率的に保存する知恵を使いつつも、時には変わりゆくこと、そのものを楽しむ心の余裕を持っていたいものだ。